No.0334
【真田幸村戦死】元和元年(1615)5月7日
大坂夏の陣において、真田幸村が奮戦の末に安居天神にて越前松平勢の西尾仁左衛門に討ち取られる。享年49歳。また徳川方の本多忠朝・小笠原秀政も戦死。忠朝享年34歳、秀政享年47歳。また大坂方の長宗我部盛親は持ち場の京橋口を捨て大坂城を脱出する。
真田幸村(正しくは信繁)は永禄十年(1567)、昌幸の二男として生まれました。幼名弁丸、通称は源次(二)郎、伊豆守信之の弟でのち従五位下左衛門佐。武田氏が滅ぶと父昌幸は独立、若き日の幸村は上杉景勝や豊臣秀吉への人質生活を余儀なくされまました。
慶長五年(1600)六月、徳川家康が会津征伐に出陣すると幸村も父や兄とともに従軍しますが、七月二十一日、下野犬伏の昌幸の陣所に石田三成から西軍(三成方)への加担を求める密書が届いたため父子は協議、その結果昌幸と幸村は西軍に、兄信之は東軍(徳川方)にと分かれ、幸村は父とともに引き返し上田城(長野県上田市)へと戻りました。
家康も三成の挙兵を知ると、直ちに軍を返します。昌幸と幸村は上田城で徳川秀忠の率いる別働隊三万八千(中に兄信之もいた)を足止めする活躍をしますが、西軍は九月十五日の決戦でわずか一日にして敗れ消滅、父子は高野山へ流され紀州浅野家の監視下に置かれました。父昌幸は配所九度山で没しますが、幸村は同十九年十月、豊臣秀頼の招きに応じて配所を抜け出し大坂入城を果たします。
やがて徳川家康は大坂討伐を決意、翌十一月十五日より「冬の陣」が始まると、幸村は三の丸南側に真田丸と呼ばれる出丸(砦)築き、鉄砲隊を配備して攻撃に備えました。そして程なく真田丸に攻め寄せた前田利常や越前松平勢を見事な用兵で散々に破り、その存在を敵味方に広く知らしめます。
一旦和議が結ばれますが結局再戦となり、「夏の陣」が開始されました。この日幸村は赤で統一した騎馬隊を率い、少数精鋭部隊を自由自在に操りつつ敵を撃破、ついに家康本陣にまで切り込みました。家康の旗本衆は逃げ散り、「厭離穢土欣求浄土」の軍旗や金扇の馬印が幸村隊の馬蹄に蹴散らされ、家康も自刃を覚悟した程だったと伝えられます。しかし、そこで幸村の武運が尽きました。
真田隊は全滅し、力尽きた幸村は安居天神において越前松平勢の鉄砲頭・西尾仁左衛門に討たれました。享年四十九歳。その戦い振りは敵にも深い感動を与え、剛勇で知られる島津家でも「真田日本一の兵、古よりの物語にも、これなき由」と幸村の活躍を讃え、遺髪一筋に至るまで取り合いになったと伝えられています。
翌日には大坂城も落ち豊臣氏は滅亡、ここに戦国の世は終結しました。
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